今日は少し、思うところを書いてみる。
AIがデジタルの様々な領域を代替し、音楽制作にしてもイラスト制作にしても、今や誰もが簡単に、より深い表現をすることが可能になった。しかし私にとっては、『Dark Seraph』のような作品を作っておきながら、実は少しばかり気が引けている部分があるのだ。
そもそも私はギターやピアノを弾く楽器奏者でもある。楽器一本でも表現は可能だが、バンドや何らかの伴奏を入れてアンサンブルとして表現するほうが、より広がりが生まれ、音に「重み」が増すと感じている。
イラストも同じだ。ただの一枚絵よりも、漫画であったり、その絵が描かれた動機や世界観の背景があったりするほうが、作品としての重みを持つ。極端な話、下手なりに一筆で描いたものやパラパラ漫画であっても、「伝えたいこと」さえ明確であれば、実はそこまで技法は重要ではないのではないかとも思う。もちろん、技法があったほうがより精細に表現できるため、習得すべきことは無限にあるのだが。
私はこの約半年間、AIを使って様々なことを試してきた。表現の幅は格段に広がった。しかしその反面、なぜか違和感を抱くようになったのだ。
それは、「自分が考えたはずなのに、いつの間にかAIに主導権を握られているかのような感覚」だ。
無理もない。だってそれは、自分が楽をした代償なのだから(笑)。つまり、楽をすると制御を失うというジレンマに陥るわけだ。
しかしながら、この「楽」のおかげで、これまで出来なかったことを実現できたのもまた事実であり、新しい手法を学ぶことができたとも言える。
人はせっかちだと己の成長を感じにくく、すぐ実現できないことにモヤモヤしてしまう。それまで自分で作っていた音楽が稚拙に見え、AIがその完成度を一気に引き上げてくれた。しかし、この「完成度を上げてもらったこと」が、己の成長にとっては少しよろしくないと感じるのだ。
デザイラもAIが生んだキャラクターであり、純粋な「私のキャラクター」とは言い切れない。『Dark Seraph』もそう。私が生んだようでいて、完全に私が生み出したわけではない。
おそらく、本来自分の手でイラストを描いたり、音楽を作ったりしてきた人が、AIを使って何らかのアートを作ると、皆このジレンマに陥るのではないかと思う。
ただ、私は新しい道を見つけていくために、この「ジレンマ」の経験は必須だと考えている。
ジレンマとは、己の中での欲と欲のぶつかり合いだ。何かを決断する中で「どちらかを捨てなければならない局面」は必ず生まれる。決め事から逃げていては、ジレンマを経験することもない。
ジレンマはストレスになる。だからこそ、人はそれを避けるために、せっかくの経験自体も避けてしまう。それは逆に、成長していくための大事なプロセスを逃してしまうように思えてならない。
AIを頑固に否定するのもひとつの姿勢だが、そこから何の解決策も生まれないのは、あまりにも「失敗」を恐れているからではないだろうか。
その失敗が、ただの「自分の面子が潰れること」への恐れだとすれば、それはあまりにももったいない。そういう人は、失敗を他人のせいにして楽をしようとする。しかし、結局は自ら経験することを避けているため、一生「失敗をなすりつける相手」を探し続けることになってしまうのだ。
ということで、己の取れる責任の範囲の中で冒険を避けるのは、あまり得策ではない。私にとっては純粋に「面白い」という本能に従ったまでであり、結果としてとてもいい経験をさせてもらったと思っている。
これから先、AIとどう向き合うか。主導権の話なのか、コラボレーションなのか、それとも一切使わずに手作りでいくのか。この選択肢の中で「どれが正解」という話ではなく、つまりは、こんなものその時の気分次第でいいのである(笑)。
それよりも、もっと大事な要件がある。
もし、すでに作り上げられたメディアの世界の住人になろうとしたり、スターダムにのし上がれると思っていたりするのであれば、オーディションは必ず受けた方がいい。それも1つや2つではなく、だ。
オーディションを受ける勇気すらないのに「そこに行きたい」なんて言うのは、受験勉強を一切しないのに「東大に行く」と言っているようなもので、ちゃんちゃらおかしい(死語)。そんな引っ込み思案なのに自意識過剰な変なプライドは、さっさと捨てた方がいいですよ、と私は思うのだ。その方が必ず楽しくなる。断言する。
夢はあったほうがもちろんいいのだが、これを叶えるための現実的な路線も抑えないといけない
いつまでも子どもの時のように、ほのぼのとした夢を見ていたい気持ちはよくわかる
だから大人はつまらないし、実現可能であるとすれば大人こそ楽しいとも思う
このGift from Ashleyもしかり、Dark Seraphもしかり
楽しくなければやる必要はないが、楽しくするためにどうするかは考えるし、気分次第である
これからも、ここには様々な表現の記録を残していきたい
いつまで生きられるのかわからないのだから
